2023年


ーーー1/3−−−  笑えない初笑い


 
初笑いをお一つ。

 昨年末、松本に住む息子夫妻が、一泊で我が家へ遊びに来た。私が車を運転して、彼らが住む松本のマンションまで迎えに行った。そこまでしてくれなくてもと、息子は遠慮したが、50分程度のドライブだから苦にならない。むしろ車内で会話をするのが楽しいので、これまでもそうしたことが何度かあった。

 二人を乗せて自宅へ戻る道すがら、梓川にあるリカーストアーに立ち寄った。県内で展開しているチェーン店で、酒の品揃えが豊富である。松本方面へ出た際は、利用することが多い。

 店内でお目当てのウィスキーを買い、外へ出た。車は、入り口を出た左に、頭を店側に向けて停めてある。車の後部から回って運転席に近づき、ポケットからキーを取り出して、開錠ボタンを押した。そして運転席のドアノブを引いたが、ドアが開かない。息子も助手席側のドアを開けあぐねている。これはいったいどうしたことか? と改めて見たら、別の車だった。軽のワンボックスで、大きさや形は類似していたが、車種は違う。だが、色は似ていた。慌てて見回したら、一つ向こうに我が車はあった。

 嫁は気付いたそうである。と言うか、私と息子がその車に近づいたのを不審に感じ、「何かあったのかしら」と思ったらしい。私が慌ててその車を離れ、「間違えた」と言ったら、「やはり間違えていたんですね」と笑いながら言った。

 息子は、自分で車を運転する事が無く、車に関心が無い。だから、間違えたのは、単に私の行動に従ったからだろう。登場人物を分析してみると、迂闊だったのは私、しっかりしていたのは嫁、素朴にのほほんとしていたのは息子ということになる。

 この出来事を、自宅に戻ってからカミさんに話した。そうしたらカミさんは、「あら、私もあるわよ」と言った。薬局の駐車場で、自分の車だと思い込んで開錠操作をし、バックドアを開けようとしたが、開かなかった。その車は、同じ車種で、色も同じ、つまり外観は全く同じ車だったそうである。この時のカミさんも迂闊だったことは間違いないが、車種が違うのに間違えた今回の私の方がひどい。

 嫁は、「母は弟(嫁の弟)から、駐車場で車を探すときは、必ずナンバーを確認するように言われていて、それを守っているようです」と言った。ちなみにお母様方が住んでいるのは、東京都西部の市街地である。私は、今回の車(ダイハツ タント)にしろ軽トラにしろ、ナンバーを確認することはほとんど無い。私の識別法は、フロントガラスの内側に置いてあるぬいぐるみである。タントにはカミさん好みの犬のぬいぐるみが、そして軽トラにも、腹に木を巻いたキリンのぬいぐるみが置いてある。

 私は嫁の発言を聞いて、混ぜ返すつもりは無かったが、「当地のような田舎では、自分の車のナンバーを覚えている人は少ないみたいだよ」と返した。実際、ある会場に人が集まっている時、会場係りの女性が、ライトが点きっぱなしだと車種とナンバーを口にして触れ回った場面に遭遇したことがある。それを聞いた、私の近くにいた中年の男性は、「ナンバーを覚えている人なんかいねえずら」と言った。

 これで話は終わりだが、楽しく笑えるような部分は一つも無かった気がする。




ーーー1/10−−−  濃厚接触体験


 
昨年11月のことである。近場へ用事があり、同じご用の近所の旦那を助手席に乗せて、軽トラで出掛けた。所要時間は、片道7、8分である。

 走り始めてすぐ、コロナの話題となった。5回目のワクチンを済ませたかと聞かれたので、通知は来たが、まだ封筒を開けてもいない、と答えた。そして、私もカミさんも、日常的に人と接する機会が無く、感染の可能性は限りなく低いので、4回まではワクチンを受けたが、必要無かったように思うくらいだ、と続けた。事実、私は一週間を通じて敷地から出ることはほとんどない。誰にも会わないし、誰も訊ねて来ない。カミさんも、同様。週に一度買い物に出るくらいである。二人暮らしだから、家族が何処かから感染を持ち込むケースも無い。

 「引きこもりのような生活をしているから、コロナに関しては安全ですよ」と言って笑ったら、相手もアハハと笑った。

 三日後、その旦那から電話があり、神妙な声で「昨日発熱したので検査をしたら、コロナに感染していた。あなたは濃厚接触者ということになる。これから四日間、注意をして下さい」と言った。あの日、出先が近場の屋外だったので、二人ともマスクをしていなかった。そうして軽トラの中で会話をしたから、私は濃厚接触者となったのである。

 侮る者に災厄が降りかかる、という事を絵に描いたような出来事であった。 

 その後の経過では、幸い感染せずに済んだが。




ーーー1/17−−−  罪悪感と無縁の人


 
同年代の気楽な付き合いの連中と一杯やっていたときのこと。ある話題に関連して、「人は他の動物と違って罪悪感というものがあるからね」というような事を口にしたら、「罪悪感とはなんぞや?」という発言があった。「これまでの人生において、罪悪感を感じた事はあるでしょう?」と聞いたら、別の人が「そんなこと一度も無い」と言い放った。

 「嘘をついたことは一度も無い」というような発言と同類のものである。それ自体ほとんど嘘だが、当人はそう思っていない。言葉の意味をどの程度の深度でとらえるかという、認識の問題もあると思うが、別の見方も考えられる。嘘をつくのは悪い事であるが、自分は悪い人間ではないから、嘘をついたことは無い、という自己正当化である。別にそれを咎めるつもりは無い。人間とは、えてしてそういうものだと思う。

 若い頃交流を持った男がいた。自己実現を目指すというようなことをよく口にしていた。その意欲に、どこか思い違いがあったのだろうか、自己正当化の傾向が顕著であった。自分の意にそぐわないことがあれば、それは全て相手が悪いからであり、自分はいつも正しいと言い切っていた。目的のためには手段を選ばないという強引、傲慢さも目立った。しかし、当人はまるで意に介さない。自己を実現するために必要なプロセスであり、当然のことだと思っていたようである。そんな具合だから、周囲との摩擦も多く、彼に対して嫌悪感や忌避感を抱く者も少なくなかった。

 以前何かで読んだのだが、自己実現を達成している人に共通な特徴の一つとして、以下のような事が書かれていた。

 「他人の不幸を目にすると、罪悪感を感じることがある」

 くだんの男は、他人を困らせたり不快にさせる、つまり他人を不幸に陥れることを、自らやっていながら、罪悪感を感じるどころか、正当化に固執していた。その面では、自己実現の適格を欠いていたように思われた。

 そのように本末転倒な生き方は、私から見れば不幸なものだったが、それに対して私が罪悪感を抱いたかと言えば、残念ながらノーである。




ーーー1/24−−−  極細糸鋸刃


 
私の象嵌仕事は、とても精密な世界である。厚さ0.2ミリの糸鋸刃を使って溝を切り、同じ厚みの金属片を嵌め込んで模様を描く。使う糸鋸刃は、金属加工用の極細刃である。この細さで木工用の刃は無いが、別に木工用である必要も無い。

 以前は、二つのメーカーの刃を使って来た。スイスのSP社と、ドイツのSQ社である。ちなみに国内には、このような刃を作っているメーカーは無い。この二社の製品を比べると、似たようなものだが、どちらかと言えば、SP社の方が品質が良いように思う。品質とは、切れ味のことである。しかしどちらも、品質に激しくムラがある。何故もっと品質を揃えられないのかと思うくらいに、ひどい。しかし怒っても仕方ない。他に入手先は無いのだから。

 昨夏、ひょんなことから新たなメーカーを知った。ドイツのA社である。クラフト工具のネット通販サイトで見付けた。そのサイトによれば、切れ味は最高だと書いてあった。SP社、SQ社の製品も扱っているが、それらと比べてのことである。ただし、切れ味が良いぶん、刃が脆くて折れやすいとあった。

 A社の刃を取り寄せた。切れ味の良さという点では、ベストな物どうしを比べると、他の二社とさほど違いが無いように感じた。しかし、品質が揃っているという面では、断然優れていた。こんなことを言うと驚かれそうだが、他の二社は、本当に切れ味が良い刃は10本に1本くらいの出現率なのである。それがA社では、10本に7〜8本くらいが良品であった。

 切れ味と引き換えに、一つ気掛かりだった「脆くて折れやすい」に関しては、むしろA社の刃は良いように感じた。他社の10本に1本の優れものは、ビクビクしながら使うほど、折れやすかった。切れ味が良い刃ほど脆くて折れやすいというのは、それらを通じて経験済みだったのである。

 品質が揃っているとは言いながら、たまに首をかしげることもある。ロットによって、やはりムラが出るのである。続けざまに切れ味が悪い刃が現れると、「A社よ、お前もか」という気持ちになった。そういう時は、何でこんなに品質管理が悪いのかと、先に述べた不満がまたもや口に出た。怒りを鎮めて想像をめぐらせば、金属用の刃を木工に使っているのだから、こういう状況になっていると思えなくもない。私がダメを出す刃でも、金属を切るぶんには問題が無いかもしれない。各社の製品ムラについて、サイト上のどこにも記述が見当たらないのは、そういう理由なのかと思ったりする。あいにく私は金属加工には不慣れなので、そこまでの比較をしたことはない。 

 A社の刃をまとめて取り寄せて、そればかり使うようになった。おおむね快調であるが、たまに切れ味が悪い刃に出くわす。そういう時は、作業開始直後でも、迷わず外して捨てる。切れない刃では能率が悪く、時間がかかるし、だいいち作業に気が入らない。木工作業は、刃物の切れ味を楽しむものなのである。ところで、SP社、SQ社の刃を使っていた頃は、思い切って捨てることができなかった。そんなことをしたら、全部捨てるはめになる恐れがあったからである。嫌でも、切れ味が悪い刃を、騙しだまし使い続けるしかなかった。A社の製品を使うようになってから、良い刃に当たれば喜び、悪い刃に当たれば捨てる、という選択ができるようになった。それで心理的なストレスが軽減され、糸鋸作業の辛さがだいぶ遠のいた。

 それにしても、このジャンルの製品の、品質のムラの激しさは、特筆に値する。日本の工業製品だったら、考えられないことである。買ってみたものの、その中の一割しか使えない商品など、あって良いはずが無い。私の用途が違うにしても、刃物なのだから、天地ほど切れ味に差があるというのは、おかしいではないか。

 しかし、目をつぶって使うしかない。物作りの技術レベルが高く、かくも無様な事態はありえない日本の工業社会だが、こういう分野の製品を作って無いのだから、どうしようもない。




ーーー1/31−−−  車のドアのミステリー


 
正月にアップした記事を見て、友人がメールを送って来た。自分もさいきん、車に関わるこんなお笑い草をやってしまったと。

 ショッピングセンターで買い物を終え、駐車場に停めてあった車を解錠しようと、キーのボタン(リモコン)を押したところ、解錠できなかった。電池切れかと思い、鍵で直接開けた。その後車を運転したら今度はピーピー鳴る。丁度購入した車屋が近かったのでそこに行き、店員に事情を話したら、即座に「半ドアですよ」と言われた。という話である。

 私が「何故解錠できなかったのですか?」と問い合わせたら、「半ドアだったからですよ」と返事があった。

 ちょっとおかしな話である。半ドアだったら、施錠出来ないはずである。そこで私はこう推理した。

 ショッピングセンターに着いて、車を降りた時点で半ドアになっていたが、それに気付かなかった。施錠しようと思って、リモコンのボタンを押した。半ドアだから施錠されないが、そうとも知らずに車から離れた。買い物を終え、車に戻った。施錠されていなかったから、ドアは手で開けられたはずである。しかし当人は、施錠されていると思い込んでいる。リモコンで解錠の操作をしたが、反応が無かった(半ドアだから当然である)。リモコンが利かないので電池切れと思い、鍵を挿し込んで解錠することにした。鍵を挿して回したら、ロックが外れた気になり、ノブを引いたらドアが開いた。

 このようなストーリーだったのではないかと伝えたら、「そうかもしれない」との返事があった。

 なんだかミステリーのような話である。こちらも鍵のトリックを題材にした、ヒッチコックの映画「ダイヤルMを回せ」を思い出した。